時は流れる
仕事の関係で、以前に16年間ほど住んでいた近くに行った。昼食時だったので、近所だった蕎麦屋に寄った。
蕎麦屋のおじさんや、おばさんには、むかし子供たちが小さかったころ子供会などでお世話になった。12年ぶりぐらいだが、お2人とも元気だった。しかし、おじさんは腰がかなり曲がっていて、見た目にも仕事がきつそうである。おばさんの話では、おじさんも80歳になるので、来年は店を閉めようと考えているのだという。
夏祭りには各町内会ごとに子供神輿が出る。小生のいた町内会には神輿と山車があり、多くの子供たちがかついだり引いたりしたものだった。しかし、その蕎麦屋の班(町内会の中の班)には、いまは小学生の子供が1人もいないという。かつての子供たちはみんな成人し、東京などに出て行ってしまった人たちが多い。そこで近所でも高齢の夫婦2人だけの世帯が増えているという話だった。
この蕎麦屋は商店街からは離れた所にあるのだが、商店街でも商売をやめてしまった店が多く、閑散としている。それだけ客がいないということである。おばさんが言うには、客も減り、高齢になってきたので、いつまでも商売を続けているわけにもいかないので、けじめをつけるということのようだ。
全国どこに行っても、地方の疲弊は著しい。小泉政権当時の新自由主義政策が原因であるかのように言う人たちもいるが、それだけではないと思う。日本という国全体の構造的な問題なのである。
なにごとにも永遠というものはない。隆盛もあれば衰退もある。日本はいわば日の沈む国なのである。ところが、政治にしろ何にしろ、日が沈むのを少しでも遅らせようという方策に必死になっている。
何人といえども日が沈むことを止めることはできない。だが、日は再び昇る。だから明日が素晴らしい日になるようにするにはどうすべきかを、いま我われは考えなければならないのである。そして、日の出が少しでも早くなるように努力すべきなのだ。
ハッキリしているのは、時は確実に流れていく、ということである。
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