« 浜松城とレーピン | トップページ | 物流はなくならないが変化する »

2012年10月29日

「お詫びと訂正」ゆり戻しの危惧

 最近は不可解なことが多い。その中の一つに週刊朝日vs橋本徹日本維新の会代表(大阪市長)がある。週刊朝日が連載をはじめた「ハシシタ 奴の本性」は大きな反響を呼んだ。しかし、第1回だけで連載が中止されてしまった。実に不可解である。

 「奴の本性」というタイトルは新聞社系週刊誌としてはかなり大胆な表現である。だが、出版社系週刊誌ならその程度のタイトルはけっして珍しくない。そこで週刊朝日としては異例だな、と感じただけであった。それよりも「ハシシタ」の方である。ここからは連載の狙いが明確に読み取れる。

 橋本氏の抗議に対して週刊朝日側は、不適切な表現があったと詫びをいれた。さらに、第2回目以降の連載を中止した。不適切な表現に対してお詫びと訂正をするのは当然としても、表現だけの問題であったのなら、連載を止めることはないと思う。報道すべきと判断する明確な編集コンセプトがあって連載を開始したのであれば、表現等に配慮しながら連載を続けるべきである。

 そもそも表現等は編集部内で何重にもチェックする体制になっているはずだ。それに、微妙な内容については事前に弁護士も目を通し、その上で掲載の可否を判断するのではないか。そのへんも不思議である。

 橋本氏や維新の会についてのマスコミ報道は、全般的に過大評価と感じていた。端的にいえば「持ちあげ報道」があふれている。そもそも、まだ国政では実績がない(現職の国会議員が何人か維新の会に参加したようだが、これは「保身八策」に過ぎないというのが大方の見方だ)。そのような中で、批判的な視点から採りあげる媒体があっても良いし、それが健全な言論活動だと思う。

 だが、誹謗と批判は違う。言論としての批判は政治的な実績や政策という面から行うべきだ。たとえば、橋本府知事の当時、本当に大阪府の一般会計が黒字になったのだろうか。出資法人との間で数字の操作がなかったのかどうか。あるいは、様ざまな事業で予算削減を進めたが、特別扱いした事業はなかったかどうか。あったとしたらどのような事業だったのか。堺屋太一氏との関係なども取材をして採りあげたら面白いと思う。

 ところで危惧されるのは、今後の報道を通して「お詫びと訂正」を続けるのではないか、ということである。つまり報道スタンスの振り子の揺り戻しだが、報道機関としては、そのようなことがあってはならない。

« 浜松城とレーピン | トップページ | 物流はなくならないが変化する »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事