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2013年3月18日

一極集中と置き去りにされる不安

 彼岸の入りの1日前だったが、先週の土曜日(16日)に茨城県常総市の片田舎にお墓参りにいった。長男と長女も一緒にお墓に行くのは6年数カ月ぶりのこと。しかも今回は1歳7カ月になる長女の娘(孫)も一緒だったので総勢5人である。

 あと何年かしたら、田舎に帰ろうかとも考えている。だが、一種の不安も否定できない。やはり、生活するには不便だからだ。鉄道の駅からはかなり離れているし、そもそも駅の近くの商店街ですら衰退が著しい。そこからさらに車で行かなければならないとなると、買い物はどうする、病院などに行くには、その他、生活上の諸問題がたくさんある。いずれにしても車がないことには自由に身動きできない。

 いまでは「過疎」という表現が頻繁に使われる。だが、半世紀以前には日本に「過疎」という言葉はなかった。「過密」という言葉は平安時代だったか(正確には覚えていないので間違いかもしれないが)、いずれにしてもかなり古い文献に出てくるという研究論文か何かを読んだことがある。それに対して「過疎」という表現を初めて使ったのは、1966、7年ごろの経済審議会(地域部会の報告書)だったのではないかと思う。これも40年ぐらい前に何かの論文で読んだ記憶に過ぎないので根拠薄弱だが、1960年代半ばに初めて「過疎」という言葉が公式の文書に登場したということだけは間違いないはずだ。いずれにしても「過疎」という表現が使われるようになってから50年ぐらいしか経っていないのである。

 「過疎」という言葉は、一般には人口が減ったりする状態などを表現する時に使われている。しかし、人口減少が前提にはなるものの、正確には一定水準の生活を維持することが困難になったような状況を「過疎」化といったはずである。最近は「限界集落」という概念もあるが、「過疎」化がさらに進行した状態を指すのだろうと思う。

 小生の田舎は言葉の厳密な意味における「過疎」までは至っていない。しかし、高齢化が進行し、また不便さが増しつつあることは事実だ。そのような現実を目の当たりにすると、ここで生活するようになったら、時代の流れから置き去りにされてしまうのではないかという不安を感じる。いずれは田舎に帰ろうか、という気持ちも揺れてくるのである。

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