原爆ドーム
3月10日に広島の原爆ドームに行った。あらためて考えてみたら何と35年ぶりである。原爆ドームは時どきテレビなどで目にするので、そんなに久しく来ていないとは思っていなかった。35年の間には、何度も広島を訪ねている。だが、ほとんど日帰りだった。そのうちの何度かは往復とも新幹線で日帰りといったこともある。
今回は広島駅新幹線口にほぼ隣接したホテルで仕事があったので、宿泊もそのホテルにした。仕事が終わってチェックインし、部屋の窓から外を見るとまだ明るい。翌日は比較的早い飛行機で東京に戻るので市内をぶらつく時間はない。そこで明るいうちにどこかに行ってみようと思い立ったのである。
駅の反対側から出ている広島電鉄の路面電車に乗って、原爆ドーム前で降りることにした。だが、原爆ドームに着いた時には薄暗くなっていた。それでも内側からオレンジ色の光で映し出された原爆ドームの姿は、原爆の残酷さをより浮き出させているようにみえた。
日が沈んでしまった平和記念公園から原爆ドームを眺めながら様ざまなことを考えた。あれは1990年9月なので、もう四半世紀近くも前のことになる。広島出身の人とシカゴ大学に行ったことがあった。キャンパスの中には入らなかったのだが、その人は入口の所でしばらくの間、じっと眼を閉じていた。その後、その日1日は寡黙だった。周知のようにシカゴ大学の研究者たちがプルトニウムの研究を行い、世界初の核反応実験に成功したのも同大学の研究チームだ。
いまは故人となったその人は、広島に投下された原爆で家族全員を失い、自分1人だけが生き残った。詳しくは聞いていないが、旧制中学に在学していて、たまたま級友たちと勤労奉仕で爆心地から少し離れた山の反対側にある工場に行っていたのが幸いしたようだ。しかし、その後は被爆者として独力で生きてきた。シカゴ大学を目の前にして、その心境はどのようなものであったろうか。いまとなっては知る由もない。
そんなことを考えながら歩いていて、翌日が3月11日であることを思い出した。東日本大震災から3年である。福島第一原発の地元では、まだ避難生活を余儀なくされている人たちがたくさんいる。広島も長崎も大気中やその他の放射能の恐れはすでにない。だが、体内に入った放射能はいまだに被爆者の人たちを苦しめている。一方、原発の再稼働に向けた手続きは着々と進んでいる。
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