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2015年9月14日

鬼怒川氾濫

 生まれ育った常総市がこんなに大きなニュースとして採り上げられたことはない。鬼怒川の堤防が決壊して市内の広域に水が溢れ、大きな被害が生じたからである。10日は名古屋に向かう新幹線の中で、鬼怒川の左岸の堤防から越水し、やがて堤防が決壊したニュースを、スマフォで心配しながら見ていた。

 常総市には弟が2人いる。携帯電話で連絡を取り合ったが、下の弟の家は鬼怒川の右岸で、川からかなり距離があり、しかも標高も高いので大丈夫だった。上の弟は仕事で愛知県に来ていて、家族が避難したものの住まいに被害はなかった。しかし、多数の人たちが被害に遭ってしまった。

 常総市は水海道市と石下町が2006年に合併してできた。したがって水海道地区と石下地区の2カ所に市街地が形成されている。最初に越水しやがて決壊して被害がでたのは鬼怒川の上流に位置する石下地区だった。この地域の鬼怒川には堤防のない区間が約1㎞あって、自然の土手が堤防の代役をしていた。その土手は私有地で、民間企業がソーラパネルを設置するために、約150mにわたって2mほど削っていた。近隣の人たちから危険だという声が上がり、昨年の市議会でも取り上げられていたようだ。最初に越水したのはその土手の部分だったらしい。

 その後、しばらくしてから水海道地区の市街地にも水があふれた。水海道地区に架かっている豊水橋という橋の近くで、八間掘川というのが合流している。川とはいっても湛水が主な役割のようである。伝聞では、上流で決壊しているにも関わらず水量が増してきたので八間掘川に水を逃すために水門を開けたら、今度は八間掘川が氾濫して水海道地区の市街地に水があふれた、という話も聞く。

 鬼怒川は常陸国風土記その他では「毛野河(川)」と記されているという。その後、「衣川」や「絹川」さらに「鬼怒川」など、明治のころまでは文献によって様ざまに表記されていたようだ。絹の肌触りと形容されるように、「絹」なら穏やかで静かな流れを連想させる。「鬼怒」ではいかにも暴れ川というイメージだ。

 自分が子供のころは鬼怒川の水もきれいで、堤外地は市域の上流から下流まで川砂が堆積していて、まるで海水浴場のようだった。流れも速く、上流に向かって全力で泳いでも前に進まず、同じ位置に留まっている。疲れて泳ぐ力が少しでも弱まると、泳いでいる方向とは逆の下流に後戻りするほどだった。やがて経済成長とともに建設ラッシュとなり、砂が掘られて荒涼とした様相になってきた。水も徐じょに汚くなってしまった。

 自然には優しい「絹」と怖い「鬼怒」の両面がある。また社会的には、表記の歴史的な変化のように「絹」から「鬼怒」への変遷という見方ができなくもない

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