日本海
金沢に1泊したので足を伸ばして輪島に行った。穴水まで鉄道で行き、穴水からはバスで輪島駅前に。現在では穴水から輪島までは廃線になっているので輪島駅跡である。輪島ではレンタサイクルで市内の主要なところははぼ周った。
穴水までの列車の車窓からみえる七尾西湾、七尾北湾は、波がなく湖のような穏やかな海面である。だが、輪島で鴨ケ浦に行くと海の様相が一変。強風が吹いていたこともあり、日本海の荒波を実感した。岩に砕けた飛沫が、さらに風で霧状になって、かなり離れたところまで吹きよせてくる。だが、海はずっとみていても飽きない。
ホテルにチェックインしてから、朝市通りの方までぶらぶらと歩いた。涛華堂という輪島塗の店で買い物をしたら、店主が写真を撮ってくれて、当日の夜にはメールで送られてきた。同店で紹介してもらった店で夕食をとったあと、ゆっくり30分ほどかけて宿まで帰ったのだが、歩きながらネオンがないことに気づいた。地上から1m程度の高さの街灯が一定間隔であり、落ち着いた雰囲気を醸し出している。ネオンのない街も良いものだ。だが飲食店なども、一見、普通の住宅のようなつくりになってるので、よく見ないと分からない。街路から覗いてみると、落ち着いた味わいのある店があるようだった。それにコンビニのない街の風景を久しぶりにみた。
翌日は特急バスで金沢に戻った。途中、バスが内灘町を通ったので、かつて内灘闘争があったのはこの辺だと思い出した。そこで金沢駅から北陸鉄道で内灘に戻ることにした。漠然と兼六園などを見ようかと思っていたのだが、兼六園は何度か訪れている。それに北陸新幹線のブームで人も多いだろうと急遽、変更したのである。
内灘までは電車で20分弱。車内では年配の方が運転席の隣で前方を熱心に眺めていた。時々、写真を撮っている。娘さんと思しき人が付き添っていて、2人は内灘より前の駅で降りられた。内灘駅前からは、鉄板道路が真っすぐに海に向かっている。米軍が戦車や砲弾などを運ぶために穴あき鉄板を敷いたのが鉄板道路の由来という。のと里山海道まで緩やかな上りで、そこからは砂浜に向かって下りになる。
内灘砂丘は1953年から1957年まで米軍の試射場にされた。それに反対したのが内灘闘争である。今も米軍試射場の射撃指揮所が遺っている。そこに行こうと砂浜に近づいたら、なんと、先ほどの杖をついた年配の方が娘さん(と思われる)と何か話しながら、帰るところだった。途中駅で下車してタクシーで来たのだろうと思う。年齢から勝手に推測すると、若い時に内灘闘争に関わり、久しぶりに訪れたくなったのかもしれない。そのように想定すれば、ショートショートのストーリーが構想できる。そんなことを考えながら、射撃指揮所跡から日本海を眺めていた。
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