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2017年11月27日

被写体

 10月30日づけの「盛衰」で土浦城(亀城)跡に撮影に行ったことを書いたが、これから来年2月ごろまでは仕事で写真を撮る機会が多くなる。通常は仕事で写真を撮るのは月1回程度だ。しかし例年のことだが、これからのシーズンはPR誌の作成その他でカメラを持った取材が増えてくる。

 書店に入ったら『土門拳の写真撮影入門』(都築政昭著・ポプラ新書)があったので、さっそく購入して読んだ。リアリズム写真を唱えた土門拳という写真家は昔から好きだった。そんなことから酒田市(山形県)に仕事で行った時には、土門拳記念館にも足を延ばしたことがある。報道写真でも芸術写真でも優れた作品を残したが、自分としてはドキュメンタリーの傑作『筑豊のこどもたち』が好きである。都築氏の著書によると、被写体に迫る妥協のない気迫はすごかったようだ。

 被写体といえば、自分が他の人の写真を撮るのは良いし平気だが、撮られるのは苦手だ。最近は自分が取材中の写真などもネットに流れているが、これは取材に集中している間に撮られているので気にならない。だが、さぁ写真を撮りますよといわれて取られるのは苦痛だ。

 先日、あるカタログ誌から取材を受け事務所での写真撮影もあった。わが事務所は実に狭いのだが、パソコンとその周りに本や資料が雑然とおかれている中に座っていると、いかにも仕事場という臨場感があって良いのだという。特定企業の社名が入っているカレンダーなどは事前に外すようにしているが、それ以外は乱雑なままの方がリアリティがあるようだ。

 そんなことで、テレビもスタジオ収録でない時は、狭い事務所でコメントしているところが「絵」になるようで好まれる。今回のカタログ誌でも、カメラマンが狭い事務所の中で苦労しながら写真を撮ってくれた。掲載するのは縦43mm×横39mmの写真1枚だけなのに、1時間以上もかけて100枚以上の写真を撮られた。いろいろなポーズを注文されるのだが、照れ屋なのでどうも恥ずかしくてたまらない。撮影が終わった時には精神的に疲れた。

 写真は被写体になるよりも、自分が撮る側の方がずっと楽だ。

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