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2019年7月

2019年7月29日

判断と責任

 全国高校野球岩手県大会の決勝戦は、高校野球ファン以外の人たちも含めて関心を集めた。県大会で優勝して甲子園出場を決めた花巻東よりも、160キロ台の速球を投げる佐々木朗希投手を登板させずに敗れた大船渡の方が注目されたのである。

 自分の体調を一番よく知っているのは佐々木投手自身だろう。だがそれは感覚的で主観的なものでもある。第三者的な立場から客観的に体調を観察しているのは国保監督である。投球練習を観ていても、ベストの状態からほんのわずかな差異でも監督なら気づくはずだ。

 エースを登板させなければ勝つ可能性が低くなるのは当然である。個人的にも「甲子園出場に導いた監督」という栄誉から遠ざかることは承知の上だろう。それ以上に、批判が殺到することを覚悟しなければならない。それでも自分の責任においてエースを登板させなかったのだから、その時点ではベストの判断だったと理解したい。

 このニュースが大きく取り上げられていた7月26日づけ朝日新聞朝刊の14面の「声」欄に、「『どちらとも言えない』に危機感」という12歳の中学生の投稿が掲載されていた。要約すると、世論調査で「どちらとも言えない」という回答が多いのが不思議だ。真摯に向き合った結果としてそう答える人もいるだろうが、あまり考えずに「どちらとも言えない」を選択する人もいるのではないか。「どちらとも言えない」が逃げ道になってはいないか。そう答える前に、もう一度よく考えて欲しい、という意見である。

 自分も常々、世論調査で「どちらとも言えない」という回答が多いのが気になっていた。だが、中学生がこれだけの意見を持っているとは、正直いって驚いた。私見を付け加えるならば、自分の意思をハッキリ表明して不利になりたくない、という保身と打算の中で生きている人が多い。その日常的な習性が、匿名のアンケートでも「どちらとも言えない」という回答を多くしているのだろう。

 そこで、世論調査のアンケートの選択肢は「良い」か「悪い」の二者択一にすべきだと思っている。回答者にはギリギリまで考えてもらって、どちらかで答えてもらうようにする。それでも判断できないという人は、選択肢にはなくても集計時には「無回答」として集計すべきだ。要は、賛否を明らかにしないで逃げてしまうようなことは良くない、ということである。

 チコちゃん的に言えば「自分はハッキリ意思表示しないで、あたかもどちらにも偏らない『良識派』であるかのように振舞いながら、他人の判断を批判したりする日本人のなんと多いことか……」となるだろう。野球に限らず、先発メンバーの記入欄に、A君が良いかB君にすべきか「どちらとも言えない」と書くわけにはいかない。判断と責任から逃げてはいけないのである。

2019年7月22日

富良野駅

 約20年ぶりに富良野駅に行った。前回は車に乗せてもらい、富良野駅前で降りて少しだけ周辺を歩き、また車で美瑛に向かった。今回は札幌からフラノラベンダーEXPに乗って富良野駅に降りたのだが、駅とその周辺が約20前の記憶とはかなり違っていたので驚いた。

 滝川から富良野までの間には芦別や赤平の駅がある。2014年12月1日の「『人』が『人々』だった時代」でも書いたように、1987年6月に岩見沢、美唄、赤平、芦別、歌志内、滝川、夕張、上砂川などを取材したことがあった。車窓からとはいえ芦別や赤平の駅をみると当時のイメージとは違ってはいるが懐かしかった。

 今回、初めて知ったのだが富良野の1つ手前に「野花南」という駅がある。あとでネットで調べたらアイヌ語の「ノッカ・アン」あるいは「ノカン・ナイ」からきているのではないか、とあった。その説についてわざわざ裏づけを取ることまではしないが、北海道にはアイヌ語に漢字を当てはめた地名が多い。それにしても野花南とはメルヘンチックな駅名だ。

 「『人』が『人々』……」でも書いたように、幌内線に幾春別という駅があった。自分が訪ねた翌月に幌内線の廃線に伴って幾春別も廃駅になってしまったが、いかにも北海道らしい駅名だと今でも強く印象に残っている。また、2012年7月30日の「無人駅下車」で書いた千歳線の「美々」駅も、5年後の2017年には人の乗降をやめて信号駅になってしまった。北海道は札幌周辺を除くと人口減少の進行によって生活利用者が少なくなり、冬の厳しさなどから保線にコストがかかるため、採算面から今後も廃線などが増えてくるのではないかと心配される。

 富良野駅はコンテナ貨物の取扱駅も隣接している。線路をまたぐ歩道橋の上から鉄道コンテナが並ぶ風景を写真に撮ったが、北海道における人々の足の確保と採算性ということを考えると、旅客と貨物を連結して運行するようにすべきではないかと思う。北海道の物流を概観すると、日用品などは道外から札幌とその周辺に幹線輸送され、そこからトラックで道内各地に放射線状に運ばれている。これは波動が小さく、年間を通して比較的コンスタントに荷物がある。だが、大きな問題はほとんどが片荷輸送であることだ。一方、道内各地から札幌や道外への上りの荷物は一次産品が多く、季節波動が非常に大きい。さらに道内のトラック輸送では労働時間の問題がある。

 このようなことを勘案すると、鉄道では旅客と貨物を連結し、さらに通運以外のトラック運送事業者も「道内モーダルシフト」を考えて鉄道と連携すべきではないだろうか。約20年ぶりの富良野駅で、そんなことを考えた。

2019年7月15日

さりげない言葉

 5月後半から7月前半ぐらいにかけては、業界団体などの総会シーズンである。そのような場にはあまり行かないのだが、案内状を送ってくれる団体には、可能な限り顔を出すようにしている。今年も数団体の総会に参加した。

 総会のような場では、あまりお会いできないような方々に会うことができる。しかも、一度にたくさんの人と顔を会わせることができるので、その点は都合がよい。久しぶりに簡単な挨拶をして、二言、三言、立ち話をするだけでも有意義だ。相手も変に構えていないので、けっこう最新の動きなどを無意識に漏らすこともあり、おもしろいネタの端緒をつかんだりする機会が多い。そのような時には、即座に「改めてその話を聞きに伺います」と半ば強引に約束を取り付けてしまう。そのような意味で総会などは作業効率が良い。

 もちろん取材のキッカケにはならなくても、それはそれで多くの人と挨拶できるのは良いことだ。しかし…である。ある総会で、「お久しぶりです」と突然、声をかけられた。過去に2、3度お会いした人で、前回からは数年ぶりである。「ここでお会いできるとは思いませんでした。お会いできて良かったです。お元気そうで…」と言われた。もちろん当方も嬉しい。また別の所では、初対面の人が「名刺を交換させてもらって良いですか。〇〇に連載されている記事は毎回読ませてもらっています」というのでこの上ない記者冥利だ。そして名刺を交換。すると、やはり「お元気そうで…」と言われた。その他、最近は似たようなケースがいろいろな場面で増えてきた。

 「お元気そうで」と言われると嬉しいのだが、それ以上に歳をとったという証拠かな、と受け止めざるを得ない。もちろん、相手はさりげなく言ってくれているのだ。しかし、ヒガミかも知れないが、世間的にみると自分はそんな歳なんだ、という一抹の寂しさのようなものを感じる。

 振り返ってみると、自分も昔は年配の人に「お元気そうで」と言っていた。受け止める方は今の自分と同じような気持ちだったのかも知れないな、と思えるようになってきた。さりげない言葉でも、考えると使い方は難しいものだ。

2019年7月 8日

映画「新聞記者」

 「この国の民主主義は形だけでいいんだ」……。これは映画「新聞記者」の中の台詞だ。決して政府高官の発言ではない(と思いたい)。それにしては、なぜかリアリティがある。

 映画「新聞記者」を観た。東京新聞の望月衣塑子記者が書いた「新聞記者」(角川新書)を原案にして制作された映画である。詳しい内容は割愛するが、内閣情報調査室と新聞記者の戦いや、良識ある若いキャリア官僚の葛藤など、久々に硬骨な社会派映画を観ることができた。

 それにしても、このような映画を制作するだけでも勇気がいるような社会になってしまった。御用ジャーナリストや御用作家なら大手を振るって闊歩できるが、それは権力から有形無形の庇護があるから。それに対して、良識的と思われる意思表明でもネットなどで攻撃を受けるような社会になってきた。その結果、忖度や自主規制が蔓延している。

 このような閉塞感のあるなかで、望月記者の「新聞記者」もそうだが、「官邸ポリス」(幕蓮著・講談社)や「内閣情報調査室」(今井良著・幻冬舎新書)など、気骨のある書き手がいるのは頼もしい。だが、「日本会議の研究」(菅野完著・扶桑社新書)に対する東京地裁の出版差し止め仮処分のような例もある。それに内調からつけられるから、くれぐれも著者は身辺にはご用心、ご用心。

 ところで参議院選挙の真っただ中。各種の世論調査をみると若い人ほど政権支持が多いようだ。映画館でもそれは分かるような気がした。入場前のものすごい人込みの中にいて、この人は「新聞記者」を観に来た人だな、この人は違う映画を観る人だな、と大体は分かる。場内に入ってから見渡すと、ほぼ当たっていた。なにしろ「新聞記者」を観る人たちは中年以上の人、なかでも高齢者が圧倒的に多く、若い人はほとんどいない。人気タレントなどが出演している娯楽映画には若い人たちが多く、入場口も大変な混みようだ。参議院選挙における支持政党の傾向もこのようなものなのだろうと想像した。

 ところで、「決められる政治」か「決められない政治」かを強調する人たちがいる。だが、重要なのは何を決めるのかである。国民にとって良いことなら、もちろん決めてほしい。だが、国民のために良くないことなら、むしろ決められない方が「よりまし」である。あれ? 「よりまし」という支持理由は、どこかで聞いたような気もするな…。

 参議院選挙の争点の1つが改憲なのだという。そこで改憲とは何かと考えた。冒頭の映画の台詞のように、かろうじて形だけの民主主義が保たれているが、それすらもなくしてしまえ、というのが改憲の狙いではないのか。改憲して、憲法に終身総理大臣の名前でも明記するか。

2019年7月 1日

カード支払い

 コンビニでのこと。わずかな金額の買い物だが、小銭がなかったので1万円札で払うしかないかと財布を見た。すると未使用のカードが入っているのに気づいた。ちょうど良いからそれで支払うことにして出した。だが、「これは図書カードですから使えません」と言われてしまった。どこかでもらって、財布に入れておいてすっかり忘れていたのだが、てっきりQUOカードだと思い込んでいたのである。

 暑い季節になってくると、駅のホームの自動販売機で飲料を買って飲む機会も増えてくる。暑くて喉が渇いたので何か飲みたいのだが、飲みたいと思うものがない。どれを買おうか迷った末に、これにしようと決めて、小銭を数えながら投入する。だが、その隣の自動販売機では、カードですいすい買っていく。おそらく周りからは、自動販売機の前でもたついている時代遅れの高齢者と思われているに違いない。

 先日、セブン-イレブンやファミリーマートでは、スマホを使った独自のバーコード決済を始めるという記事を読んだ。すでに大手コンビニで使用できるスマホ決済はいろいろある。だが、あえて独自決済ということは、顧客の囲い込みが目的だろう。個人データを蓄積し、商品開発や販売勧誘などに活かす。もちろん、店舗の省人化など効率化も目的だ。小売店舗では、将来、無人化なども想定されるが、それにはキャッシュレス支払いが前提になるからだ。

 最近は何かとカード決済が奨励されるようになってきた。そのためのインセンティブとして、ポイント還元などがある。

 しかし、どうもカード決済などには抵抗感がある。今年に入ってからでも「利便性の代償」(2月18日)や「個人情報とレコメンド」(3月4日)を当コラムで書いているが、どうしてもポイントと引き換えに個人情報を切り売りするのは嫌なのである。そうはいってもEメールは使っているのだが…。

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