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2021年3月

2021年3月29日

「走観桜」「歩観桜」

 桜が満開になってきた。好天の朝に川の土手などを走りながら観る桜は、朝日に映えて爽やかである。すでに満開の木もあれば、まだ二分咲きや三分咲きの木もあるので、もうしばらくは楽しめそうだ。毎朝、走ったり歩いたりしながら観る桜を「走観桜」か「歩観桜」とでも命名しよう。コロナ感染防止のために、桜の名所でも今年はゆっくり観ることができない。歩きながらの観賞である。その点、早朝の川の土手の桜などは精神的に余裕を持って楽しむことができる。

 桜の話題はこのコラムで過去に何度か採り上げている。「出会いと別れ」(2012年4月2日)、「『団塊桜』は散らず」(2013年4月1日)、「観桜」(2017年4月10日)である。このようにみてくると、いずれも4月の日付になっているので、そのことからも今年は例年より桜の開花が早いことが分かる。

 以前にも書いているが、満開の桜の花からは出会いのときめきや喜びのようなものが感じられる。そして風に吹かれて散りゆく桜の花びらからは、別れのせつなさや寂しさのようなものを感じる。桜の花は、人生における出会いと別れを象徴しているように思う。自分が生まれ育ち、現在も住んでいる関東では、桜の開花が卒業や入学などの時季とほぼ重なるからだろう。

 先週は、夜の9時過ぎに小学校3年生の孫から電話があった。長男と長女の子供がそれぞれ2人ずつで、4人いる孫のうち一番大きな孫娘である。なんでも学校の宿題で俳句を三句ほど創っていかなければならないとか。自分で詠んだ句を電話で読み上げて、これで良いか意見を言ってくれという。そこで、あれこれ感想を述べた。1つは春がきてもうすぐ3年生を修了するが、3年生だったこの1年間を詠んだもの。2つ目は、春がきて6年生が卒業していく別れを詠んだもの。3つ目は、この1年間で思い出に残ったクラスの取り組みなどを詠んだものだった。

 電話で季語がどうのこうのと、一人前のことを言っていた。早いもので4月からは4年生か…。そして二番目に年長の男の孫は4月から小学生だ。言動も「少年」らしくなってきた。さらに来年、再来年と続けて2人の孫が小学校に入学する。4人の孫たちは将来、どのような花を咲かせるのだろうか。やはり桜の花は人生の節目の季節を感じさせる。

2021年3月22日

山下公園(横浜)

 先週は春のような陽気が続いた。一昨日が彼岸の中日(春分の日)なのだから驚くことはない。一方、自分はと言うと在宅時間が長くなり、外出する機会が以前よりずっと減った。陽気につられて外を動き回りたいのだが、当面はそうもいかない。

 先週は火・水・金とリモートで取材や会議が入っていた。リモートは便利なようだが、時間帯によっては逆に不便だ。朝9時からとか、夕方の4時からといったスケジュールなら、それ以外の時間に外出する予定を入れることもできる。リモート会議が終わってから家を出るか、リモート取材の時間までに帰宅すれば良いからだ。だが、1日の中間の時間帯にリモートの予定が入っていると、移動時間があるので対面取材などのアポイントが取れない。

 もちろん、タブレットを持ち歩けば外出先でリモート会議などに参加することはできる。しかし、外出先でのリモートによる取材や会議では、1時間とか2時間にわたって、それができる場所を確保する必要がある。そんなわけでリモート取材や会議の予定が入っている日は、その前後の時間帯で原稿を書いたり、資料を取集して取材の準備をするような働き方になる。外は春の陽気なのに…、という思いが募る。

 それに最近は無性に海が見たいが、それも叶わない。昨年3月に取材のついでに天橋立に足を延して以来、海を見ていないのでちょうど1年になる。そこで先週は、横浜市内での取材のついでに、みなとみらい線で元町・中華街駅まで行き、山下公園を短時間だがブラブラして久々に海をみた。1本だけで、あまり大きな木ではないが園内の桜もちょうど満開で、写真を撮っている人たちが結構いた。


 横浜市観光情報によると、山下公園は1930年の開園で、関東大震災の瓦礫を埋め立てて造ったとある。園内には「赤い靴はいてた女の子」の像や「かもめの水兵さん」の歌碑などがある。童謡「赤い靴」(野口雨情作詞・本居長世作曲、1922年)も、「かもめの水兵さん」(武内俊子作詞・河村光陽作曲)も、横浜の港ならではという雰囲気がある。

 それにしても、横浜の山下公園に行っただけなのに、ちょっとした旅行気分になってくる。おそらく多くの人は、長引く自粛への不満が鬱積しているはずだ。1都3県の緊急事態宣言が今日から解除されるが、これまでの反動で行動が一気に活発になり、リバウンドが心配である。

2021年3月15日

ざぶん、どぼん

 最近は「週刊文春」の活躍が目立つ。新聞など「エリートジャーナリズム」は何をしているのか。記者クラブに加盟していると「秩序維持」のための自主規制が働いたり、番記者などは取材対象への密着度が高いので「忖度」が生じる。そこで「文春」のスクープを後追いすることになるが、その方が「最初に書いたのは自分ではありません」と報道しやすい面もあるのだろう。だが、ジャーナリズムは囲い込まれず、常にアウトサイダーを心掛けなければいけない。「文春」スクープの中でも総務省官僚の接待問題では過去の経験などを思い出した。

 接待された官僚が「相手が関係者とは知らなかった」とは白々しい。キャリア官僚は相手が誰だか分からなくても誘われればタダで飲み食いするというのか。また、会食中には一般的な会話で許認可などに関わる具体的な話しはなかったとしているが、接待の場で具体的な要請をするほど野暮な接待者はいない。阿吽の呼吸というものだ。もう一つ、東北新社(あるいは子会社)が接待日かその前日ぐらいに、デパートから商品券を購入していないかどうかを調べれば、飲食代やタクシー代、お土産の他にも何かが出てくる可能性がある。

 そもそもキャリア官僚は危うきには近寄らない。この時期にこの誘いは何が目的かなどお見通しで、リスクの大きい接待には応じないはずだ(政治家が間に入ると別だが)。リスクとは出世の障害になる危険性である。それにも関わらず接待に応じたのは、接待を断る方がリスクが大きいからだ。接待を断って「パパに言いつけられる」と出世コースから外されてしまう。だから接待に応じたと解釈するのが普通だろう。

 だが過去の経験から、総務省の電波行政に関わる官僚ならさもありなん、という思いもある。四半世紀も前のことだ(日付けはあえて省略)。郵政省(当時)の電気通信局電波部のあるキャリア官僚に座談会への出席をお願いした。了承を得て帰ると、待っていたかのようなタイミングでその部下から電話が入った。「座談会出席の謝礼はいくらか」という問い合わせである。これには驚いた。仕事の関係で運輸省(当時)のキャリア官僚には同様のお願いなどを何度(何人に)もしてきたが、謝礼云々と言われたことなど無かったからだ。今様に言えば「上司の口から言わせるわけにはいかないので私が代わって電話した」ということだろう。部下から連絡が入るということは、個人ではなく組織的な体質の問題であることを証明している。その時、電波の許認可には利権が絡むという一般論が実感として分かった。

 官僚の接待ということでは、1998年の大蔵官僚(当時)の「ノーパンしゃぶしゃぶ」を思い出す。また日銀絡みでは、「ざぶん(1人1万円)」と「どぼん(1人5万円)」というのもあった。「ざぶん」も「どぼん」も人が水に飛び込んだり物が水に落ちたりする音だ。だが、「水に…」と発想するのはノンキャリで、「ぬるま湯に…」と頭に浮かべば立派なキャリアだ。

 「ぬるま湯につかる」とはよく言ったもので、1度つかるとなかなか出れなくなる。先人のたとえはキャリア官僚より先をいっている。

2021年3月 8日

「もう」「まだ」「これから」

 人間の世界はコロナ禍で大変だが、自然の世界では着実に季節が巡ってくる。「啓蟄」を過ぎて虫さんたちは起きだしてくるというのに、人間は依然として「蟄居」を余儀なくされている。だが、それでも季節は移ろいゆく。

 雨が降らなければ毎朝、走ったり歩いたりするようになって8カ月以上が過ぎた。いろいろなコースがあるが、1週間に1度くらいは国立市の谷保天満宮に行く。さほど広くはないが梅林があって、10日ぐらい前から梅の花が咲いている。屋台もいくつか出ていて、早朝なのでシートで覆われているが、それでも「焼きそば」などと書いた紙が貼られているのが見える。もう、梅の季節かと思っていたら、今年は全国的に桜の開花が早いと発表された。梅の次は桜と着実に春が近づいてくる。

 毎年この時期には確定申告があり、面倒なのだが先週やっと済ませてきた。昨年はコロナの影響で講演料収入がかなり減ったが、反面、取材その他の出張が極端に少なかったので交通費や宿泊費が減少した。ほんのわずかな金額だが還付金があるらしい。あざなえる縄のごとく、ささやかだが一喜一憂といったところだ。

 そして今週はというと、木曜日が3月11日なので東日本大震災から早くも10年が経つ。10年前の3月11日は名古屋にいて揺れを感じたのだが、名古屋駅から10時間以上かかってやっと深夜に新宿駅まで戻ることができた。新宿駅の地下道や階段のところには、帰宅できないたくさんの人たちが新聞紙などを敷いて座ったり寝転んだりしていた。自分も家には帰れないので新宿駅に近い事務所で一夜を過ごすことにしたのだが、事務所は書棚が倒れて本や資料などが散乱していた。仮眠もとれない状態なので、片付けをしている間に外が明るくなってきた。あれから10年も経つのかと時の流れを実感する。

 東日本大震災で思ったことは、人はいつ、どこで、どうなるかなど分からない、ということだった。そこで、何でも良いから文字として残しておこうと、翌年の2012年1月9日から毎週月曜日のUPで始めたのがこのコラムで、今回が474回目になる。東日本大震災から10年目の現在は、世界中が新型コロナウイルスに苦闘している。まさに、どうなるか分からない。

 東日本大震災で犠牲になられた方々は多い。被災したたくさんの人たちにとって、あるいは幸いにも直接的な被害には遭わなかった人たちにも、この10年の歳月はどのようなものだったのだろうか。「もう10年」なのか、あるいは「まだ10年」なのか。同じ10年でも人それぞれに思いは様々だろう。だが、誰もが「これからの10年」に向かって歩みださなければならない。

2021年3月 1日

高輪ゲートウェイ駅

 初めて高輪ゲートウェイ駅を利用した。品川シーズンテラス・タワー内の会社に取材に行ったので、降車したのは品川駅だが、物珍しさもあって帰りは高輪ゲートウェイ駅から乗車することにしたのである。3カ月ほど前にも取材で田町駅の近くのオフィスビルに行ったが、時間的に余裕がなかったので次の機会にと思っていた。

 高輪ゲートウェイ駅は品川駅と田町駅の間にできた新しい駅で、山手線と京浜東北線が停車する。本開業は2024年度の予定だが、2020年3月から暫定開業した。山手線では1971年の西日暮里駅、京浜東北線では2000年のさいたま新都心駅以来の新駅開業である。

 品川シーズンテラスは山手線の外側なので、高輪ゲートウェイ駅に行くのは苦労した。新幹線をはじめたくさんの路線が敷設されているが、線路をまたいで新駅に行ける道がないのだ。結局、田町駅の近くまで歩いてやっと山手線の内側にわたることができた。

 新駅は近代的なデザインで、昔の「停車場」(すでに死語かな)とは隔世の感がある。だが、日本で初めて鉄道が開業した当時は、田町駅と品川駅の約2.7㎞にわたって堤を建設して路線を施設したという。当時はこの辺りまで海岸線だったのだろうと想像する。この高輪築堤は長年の間、地中に埋もれていたので分からなかった。ところがJR東日本が車両基地跡地の再開発を進める中で、その高輪築堤の遺構が約1.3㎞にわたって発見されたという。その一部を何らかの形で保存することが検討されているようだ。

 JR東では車両基地跡地の再開発を進めている。その中核となるのが高輪ゲートウェイ駅である。日本で初めて鉄道が開業した当時の高輪築堤の遺構と、近代的な建物の高輪ゲートウェイ駅の対比が面白い。本開業の2024年度ごろには新駅周辺の様相もだいぶ変わっていることだろう。

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