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2021年12月

2021年12月27日

10年間続いた

 今年も最後のコラムになった。当コラムを書き始めたのは2012年1月9日の月曜日からで、毎週月曜日に更新するようにしてきた。途中、2017年6月19日と6月26日の2回だけはUPしていない。これは「デジタル難民」の悲しさで、サイトや入力などの技術的な理由による。そんなことで2回を除けば、この10年間、良く続いたものだと我ながら感心する。

 コラムを書こうと思ったそもそもの動機は2011年の東日本大震災である。人生の中でも大きな出来事だった。その時、人間はいつ、どのようになるか分からないものだと痛感した。そんなことをずっと考えていたが、2012年の新年から一念発起してコラムでも書いてみようと思い立ったのである。どんなことでも良いから生きた証として自由気ままに何かを書き残しておこう、という心境だった。

 だが、何をどうすれば良いのか分からないので、2012年の年明け早々にWebマガジン(トラックNEXT)でお世話になっているメディアリンケージを訪ねて教えてもらい、同サイトに居候させてもらうことになった。そんなことで1月2日の月曜日ではなく、第2週の月曜日からのスタートになったのである。

 初回のタイトルは「自らへのマニフェスト」だ。「三日坊主」や「三号雑誌」という比喩があるが、「三号コラム」にはならないように宣言(マニフェスト)したのである。当初は自分が毎月発行しているM Reportとのリンクや、文字だけではなく写真も載せようなどと考えていた。だが、それらはいずれも未だ実行していない。日常の仕事に追われて毎週月曜日に更新するだけでもけっこう大変な状況だからである。それに「デジタル難民」のため、手間暇かけて複雑なことが出来ない、という事情もある。

 それでも10年間、良く続いたものだ。M Reportとのリンクはともかく、そのうち写真ぐらいは載せて少しは見栄えも良くしたいと思う。

 

2021年12月20日

風景の新鮮さ

 先週は月曜、火曜日と山形に出張し、金曜日は水戸を日帰りした。コロナ下で自粛していたので新幹線や在来特急に乗ると、これまで何度も見ているはずなのに車窓の風景が新鮮に感じる。

 山形新幹線では、福島から米沢間の山間部が大雪だった。ずっと昔になるが、まだ新幹線がなく在来特急で山形方面の出張から東京に帰る時も、米沢~福島間が大雪だったことを思い出した。また、新幹線が開通してからも、冬季に山形に向かう時に大雪だったことがある。その時は、2頭の鹿が線路の近くの斜面にいるのをみた。そんなことを思い出しながら車窓からの風景を観ていると新鮮さを感じるのだ。

 帰りは新幹線の発車時間まで僅かしかなかったが、速足で霞城公園を半周した。霞城公園は何度も訪れているが、最初に行ったのは約40年前である。当時は物流分野ではなかったが各地を取材していた。その時は、約2週間ほどかけて寒河江、山形、上山、南陽、長井、米沢とその周辺町村の衣料品店を訪ねて、経営状況や景況感などを取材した途中だった(山形県内のその他の都市は他の記者がそれぞれ担当)。

 そのころは2週間ぐらいかけて地方を取材していた。大きな都市では3日ぐらい取材し、小さな町村では1日だけ取材して、夕方に次の町に移動するというパターンである。鉄道がない小さな町にはバスで行く。最終バスでの移動も珍しくはなかった。最初はそれなりに乗客がいるが、各停留所で何人かずつ降りていく。だんだん人家も少なくなり窓の外に明かりが見えなくなってくる。終点まで行くのは自分1人だけということもあった。バスの外で小雪が舞っていたりすると心ぼそくなったものだ。

 しかも宿泊する宿など予約していない。バスの終点はその町や村の中心部なので、交番を見つけて旅館を聞き、飛び込みで宿泊をするといったことを当たり前のように繰り返していた。そのころ東北や北海道のホテルや旅館では、冬季は通常の宿泊料金に暖房費がプラスされた。

 宿では毎晩、当日取材した原稿を書いた。そのころは手書きである。また、当時はまだFAXも新しい通信手段だった。勤めていた出版社には仕事上必要なのでFAXがあったが、地方の出張先からだとFAXを送れる所が少なかった。そこで毎朝、前日に取材した原稿を郵便局から速達で会社に送ったものだった。

 そんな合間に霞城を訪ねたのが最初だった。今回も急ぎ足での訪問だったが、昔を思い出しながら城跡を半周して駅に戻った。

2021年12月13日

もう12月中旬

 早いものでもう12月中旬である。今年も残り僅かになってしまった。この1年間を振り返ると、何となく過ぎてしまったという感じだ。淡々と時間が流れていく。

 年初から夏ごろまでは、コロナで何かと制約された生活を余儀なくされたような気がする。行動範囲も限られ、精神的にも窮屈な毎日だった。夏ぐらいから少しずつ出張などもするようになってきた。だが、まだまだ慎重に動いているような状態だ。そんなことで、この1年間はこれと言って強く印象に残るような出来事もほんの少ししかなかった。

 秋以降はコロナの新規感染者数が少なくなっている。もちろん良いことではあるが、終息に向かっているとは言えず、理由が分からないので安心はできない。しかもオミクロン株という変異種が世界的に感染拡大してきているので不安だ。

 そんなこんなで今年も残り僅か。来年に期待するしかない。

2021年12月 6日

「神田川」と青春

 約1年前になるが、2020年11月9日の当コラムで「浦島太郎と神田川」を書いた。久々に井之頭公園に行った時のコラムである。井之頭池の東の端から流れ出ているのが神田川だが、実際の神田川よりも南こうせつとかぐや姫が歌った「神田川」(作詞:喜多條忠、作曲:南こうせつ、編曲:木田高介)の方が思いで深い、と書いた。


 その喜多條忠さんが亡くなられた。まだ74歳である。「神田川」がヒットしたのが1973年なので、喜多條さんは26歳の若さだった。キャンディーズが歌った「やさしい悪魔」や「著中御見舞申し上げます」、梓みちよ「メランコリー」、沢田研二「ロンリー・ウルフ」その他、たくさんのヒット曲を作詞している。団塊の世代にとってはいずれも懐かしい青春時代の歌である。

 早いものであれから半世紀が経ってしまった。だがこの50年を振り返ると、たしかに「若かったあの頃 何も怖くなかった ただ貴方のやさしさが 怖かった」(「神田川」より)と、しみじみ実感する。20歳代半ばで、50年後の今もなるほどと思えるような言葉が浮かんで作詞したのだから、ただ驚くばかりだ。

 そんなことを思っていたら、むかし多少の縁があって一緒にわが家で酒を飲み、夜遅くに奥さんが心配して迎えに来たというエピソードのある懐かし人のインタビュー記事が、顔写真入りで新聞に載っていた。当時は院生だった彼も、すでに現在はある大学の名誉教授だ。それだけの歳月が流れたことを実感する。我われ団塊の世代も高齢者になってしまったが、これからもあの頃のように、何も怖がらずに、しかし優しく生きていきたいものだ。

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