「農者国栄」
都電荒川線 王子駅前停留場付近=東京都北区
4月26日づけの「農業共済新聞」(全国農業共済協会発行)の「ひと意見」という欄に、「トラック運送業界『2024年問題』 新たな農産物物流システム構築を」という記事を出稿した。この間、Yahoo!ニュース個人に九州や東北の農産物の物流に関する記事をUPしていたので、それを読んだ編集部の担当者から執筆依頼があったのだ。まさか農業関係の新聞に「2024年問題」の記事を書くとは思ってもいなかった。
送られてきた掲載紙を手に取って、おじいちゃんを思い出した。おじいちゃんは農協に勤めていた。珍しいのだが、生まれ育った村には農協が2つあった。政治的な意見の違いから組合員が分裂して革新系と保守系の2つになった、という。ずっと関心を持ち続けていたので30歳代になってから調べたら、村長選挙も、その後の県議会選挙も、保守系と革新系の候補者の得票が同数だった。村長選挙では得票数が同じなら年長者を当選にする慣例があったらしい。お会いした時はすでに高齢になっていたが当時の元村長にも話を聞くことができた。
そのようなことで組合員間の対立が激化して分裂。おじいちゃんは保守系の農協を新たに設立したリーダーだったらしい。その農協で職員として働きながら村会議員や、合併後の市会議員などもやった。そんなこともあって家の床の間には、誰の書かは分からないが「農者国栄」という掛け軸がかかっていたのを覚えている。
おじいちゃんは多くの人から親しみを込めて「ガンジー」と呼ばれていた。坊主頭に丸い眼鏡をかけていたので、当時の小学校の教科書に載っていたインド独立の父といわれたマハトマ・ガンディーの写真によく似ていた。それもあるのだろうが、おじいちゃんの「ガンジー」は「頑固じじぃ」から来ている。日曜日も農協には誰かが交代で出勤していた。農作業をしていて肥料などがなくなり、急に必要になった人が来るからだ。そこで日曜におじいちゃんが出勤する時には、小学校に入る前から一緒に1日、農協の事務所で過ごした。そのため「日曜組合長」といわれ皆から可愛がってもらった。おじいちゃんは自分が高校3年の秋に亡くなったが、その後も、農協関係者や役所の一部の職員の人たちからは「ガンジーの孫」と好意的にしてもらった。
農家の人たちは秋にコメの収穫が終わると、1年間積み立てていた資金で2泊3日ぐらいのバス旅行に行く。おじいちゃんも毎年、集落の旅行に招待されたが、農家の子供たちも行くので自分も連れて行ってもらった。バスの中では、いつもおじいちゃんがマイクを持って何か長い話をしていた。自分もトラック運送協同組合の研修旅行に呼ばれて、バスの中で「トラック運送業界の現状」などについて話をすることがある。今にして思えば、おじいちゃんも「今年の米価をめぐる動きは云々‥」などと話をしていたのだろうと思う。またある時は、おじいちゃんに連れられて東京の集会に行った記憶もある。全国から農家の人たちがたくさん集まって、鉢巻をしてこぶしを振り上げていた光景を今でも断片的に覚えている。おそらく農家の要求を政治に反映させるための集会だったのだろう。トラック協会でも全国から東京に集まって鉢巻をして「ガンバロー」とやることがある。その会場に取材で同席すると、おじいちゃんに連れられて行った農民の人たちの集会を思い出す。
20歳のころ、浪人をしながら東京で1人暮らしをしていた。「浪人」といっても、自分は何をしたいのか、どのように生きていくかが分からず、ふらふらしていただけである。そんなある日、三畳一間の狭いアパートで昼間からゴロゴロしていたらウトウトしてしまった。その時、夢におじいちゃんが現れて自分の名を呼び、「〇〇の本はもう読んだか。良い本だからまだなら読んでみろ」といった。その声を聞いた瞬間に目が覚めたのだが、いくら考えても〇〇という書名が分からなかった。今だに分からない。
そんなおじいちゃんは天国で「農業共済新聞」の記事を読んでくれているはずだ。いずれ自分も天国に行って再会するが(「お前が行くのは地獄だ」というヤジが飛びそうだ)、おじいちゃんは昔のように頭をなでてくれるだろう。だが、楽しみはまだまだ先にとっておく。
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