心技体
狭山湖=東京都東大和市
パリ・オリンピック・パラリンピックが開催されている。テレビでは多くのチャンネルでオリンピックを放送しているので、つい観てしまう。正直にいえば観ざるを得ないような状態だ。前回の東京大会もそうだったが、あまり熱心に観ようという気にはならない。だが、オリンピックの期間中はテレビでオリンピック以外の番組の選択肢が少ないので、なんとなく観ているような状態だ。
今回のオリンピックでは「心技体」ということを改めて考えさせられるシーンもあった。
「われ未だ木鶏たりえず」‥‥第35代横綱の双葉山は70連勝のかかった大一番で安芸ノ海に敗れ、連勝が69で止まった。館内にはたくさんの座布団が舞ったというが、双葉山は敗れた後はいつものように土俵に一礼をして花道を下がったという。そしてその夜、知人に当てて打った電報が先の文言だったといわれている。今風にいえば、連勝が途切れた夜に親しい人に送ったメールというところか。
相撲では「心技体」といわれる。「技」と「体」だけではなく、「心」が伴っているかどうか。この3つが揃ってこそ大横綱と評される。「技」と「体」を鍛錬する過程で「心」も成長してくるのが理想だ。これは多のスポーツに当てはまるだろう。オリンピックに出場するような選手は、その競技においては世界のトップレベルの「技」と「体」に達している。だが「心」が伴っていなくても、「技」と「体」だけ優れていれば試合に勝つことはできるだろう。「心」は日ごろの練習だけではなく、負けることの悔しさや悲しみなどを知り、それを越える過程で成長するのかも知れない。テレビでオリンピックを観ながら「心技体」といった言葉を思い出した。
まだオリンピックは終わっていないが、これまでの競技では日本の選手に不利な判定が出されるような場面がいくつかあった。身びいきかも知れないが、そんな場面をいくつか目にした。また、いろいろな競技で日本以外の国の選手に対しても不可解な判定があった。
審判員にも、判定が適切だったかどうかを評価する制度を採り入れるべきだ。オリンピックで審判を務めるような審判員は審判の「技」と「体」は優れているだろう。だが、微妙な判定を瞬時に判断するには「心」も大きな要素を占めてくる。個人の感情は抜きに第三者に徹して公平、中立であるかどうか。審判員の技量も客観的に評価する制度を採り入れることで判定のレベル向上を図る。選手たちの世界最高のパフォーマンスは、最高レベルの判定があって輝くし、たくさんの人に感動を与える。
それにしても観ていて可哀そうになったのは、セーヌ川で泳がされたトライアスロンの選手たちだ。選手自身も複雑な気持ちだったのではないだろうか。セーヌ川をきれいにするだけではなく、開催者自身の「心」の浄化が必要だ。
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