日記・コラム・つぶやき

2018年4月30日

大型連休とプチ連休

 今年は5月1日と2日に休みをとれば、4月28日から5月6日まで9連休という人もいるだろうと思う。とくに製造業などでは飛び石で休むよりも連続して休んでしまった方が生産性の面からも良い。

 

 一方、小売業や飲食業などでは、大型連休は稼ぎ時である。とくに観光地のお土産屋や飲食店、旅館やホテルなどは大忙しだ。だが近年は、アルバイトなどの確保が難しいという状況もあるのではないだろうか。

 

いずれにしても大型連休を取れる人たちは良い。羨ましい限りである。

 

 自分たちも、ここ数年間は大型連休に合わせて孫たちと2泊3日ぐらいのプチ旅行に行っていた。だが、今年はなしである。というのも4人いる孫のうち、一番上の孫が4月から小学校に入ったからである。

 

学校の休みはカレンダー通りだが、休みでもいろいろ予定があるようで、なかなか日程が合わなくなった。とくに大型連休中は、子供たちを入れて10人ともなると、かなり早めに宿泊の予約をしておく必要がある。それが難しくなったのである。

 

 そのうち孫たちも、学校が休みでも習い事などの予定が入るようになってくるだろう。さらに成長するにしたがって友達と遊んだほうが楽しくなってくるはずだ。このようにして精神的にも少しずつ大人になっていく。

 

そう考えると楽しみで嬉しくもあるが、同時に少し寂しい気持ちにもなってくる。そのようにして世代が代わってくるのだな、としみじみ思う今年の大型連休である。

 

 ということで急遽、かみさんと2人でこれからでも予約できる温泉に5日、6日の1泊2日で行くことにした。ささやかな連休である。

2018年4月23日

「記憶の限り…」

最近は毎日まいにちどんなニュースが飛び出してくる分からなくなってきた。新聞、テレビ、週刊誌と、とくに政治担当記者は忙しいだろうと思う。だが、野次馬に過ぎない自分としては期待感のある楽しい毎日だ。

 

それにしても「記憶の限りでは」というのは、実に都合の良い言葉だ。今年の流行語大賞にノミネートされるのではないだろうか。

 

自分に不利なことは、「記憶の限り」覚えていないことにすれば良い。反対に「記憶の限り」何々だったと、自分に有利になるようなことを主張すれば良い。どちらも「記憶の限り」なので、故意にウソをついたわけではないと逃れられる。

 

 A君「自分の記憶の限りでは、君に貸した金を返してもらっていなかったはずだ」

 B君「いやいや、自分の記憶の限りでは、あの時に間違ってかなり多く返してしまったように覚えている。良い機会だから過払い金を返してくれないか」

 

 両人とも「記憶の限り」なので、どちらもウソはついていない。そこで手打ちとなり、仲直りに「もぐもぐタイム」にしようとなった。A君は「モリ」をたのみ、B君は「カケ」を注文して会話は続く。

 

 A君「それにしても、セクハラ報道の彼も可哀そうだ。辞任したりせずに、もう少し居直っていれば7月には定期異動として処理できたものを」

 B君「それを狙ったんだろうが、世論を逆なでするようなことをするから逆効果になってしまった」

 A君「黙ってじっと我慢をしていれば、記憶などすぐに薄れてしまうのに」

 B君「そう、そう。反省したようなふりをして2、3カ月もジッとしていれば、記憶が薄れて支持率も回復するさ」

 A君、B君「そだねー」

 

 やはり流行語大賞は「記憶の限り」よりも「もぐもぐタイム」や「そだねー」の方が有力そうだな。

2018年4月16日

環境適応能力

 ちょうど1週間前になるが、エンゼルスの大谷翔平選手が7回1安打12奪三振で2勝目をあげた日、試合の途中までテレビで観ていた。通常ならすでに家を出ている時間だったが、朝9時に訪問するというアポイントをとっていたので、事務所に寄ってからでは大変だ。そこで家から直接行くことにしたのだが、直行だとけっこうゆっくり家を出ても十分に間に合う。時間があるので大谷選手が先発予定だったことを思い出し、家を出るまでの間、テレビ観戦したのである。

 

 ところが、パーフェクト・ピッチングが続いていた。このままランナーを1人も出さないで試合が進むと、中座して家を出るのが惜しくなる。多少は遅刻してもかまわないから、最後まで試合を見続けるか、どうするか、という判断がつかないまま試合が進行した。まだ家を出るリミットまでは多少の時間があるという時に、ヒットを打たれたので気持ちの区切りがつき、遅刻せずに先方に着くことができた。

 

このままノーヒットノーランで行ってくれという願いや期待と、1本打たれれば席を立てるのにという気持ちが錯綜する、実に不思議で複雑な時間を経験することができた。その時、ふと思ったのは、監督も同じような気持ちなのだろうな、ということだった。ノーヒットノーランのままで推移すれば、投球数が100球を超えても交代させるわけにもいかない。といってシーズンは長いし、ましてや大谷選手の選手生活はもっと長い。将来を考えればムリをさせるわけにもいかない。だが、ヒットを打たれたので躊躇なく7回までで後退させることができた。変な話だが、監督もヒットを打たれてホッとしたのではないだろうか。

 

 ところで大谷選手の潜在能力は計り知れないものがある。それは当然で言うまでもないが、それに劣らず凄いのが環境に適応する能力ではないだろうか。オープン戦のころはそれほどでもなかったが、すぐにMLBのレベルに適応した。1試合の中でも、相手を見抜いて学習し、対応できる環境適応能力に優れているのだと思う。

 

いま流行りの表現をすれば人間AIではないか。まさに「適者生存」であり、これからの活躍が楽しみだ。

2018年4月 9日

湯河原温泉と念力

 先日、あるマイナーな研究会で湯河原に行った。この前、湯河原温泉に泊まったのはいつだったろう。ハッキリと覚えていないが、おそらく10年ぶりぐらいではないかと思う。この間に熱海や修善寺、熱川、箱根など、湯河原の近くの温泉には行っているのだが、気づいてみたら湯河原はうっかり抜けていた。

 今回は5部屋しかないという旅館だった。もちろん高級感はあるし値段もそれ相応だ。しかし、5部屋で経営をしていけるのだろうか、というのが夕食時の話題の1つだった。聞くところによると、家族経営だからやっていける、とのことである。

我われの研究会はたった3人なので1部屋である。露天ぶろなどは何度入っても貸切状態なので、のんびりと温泉に浸かれた。他にも客がいるのは分かるが、果たして何人だろうというのも関心事の1つ。夕食は部屋だったので分からなかったが、朝食時に分かったのは5部屋のうち4部屋に客がいた、ということである。そこで、平日なのに稼働率が8割なら経営できるだろうということになった。

 たいていの客はリピーターで、中には定期的に訪れる客もいるという。たしかに隠れ家のような雰囲気があり、静かにゆっくりしたいという客には向いている。そこで、我が研究会では、このような経営の仕方もあるのだな、ということになった。これが、今回の研究会における唯一の研究成果? である。

この話にはさらに余禄がある。

前回はたしか1泊のセミナーで講師として呼んでいただいて湯河原に行ったのだったと、思い出しながら当コラムを書いていたら、なんと、その時のセミナーの主催団体から6月に開催するセミナーでの講師のオファーが入ってきたのである。今回の会場は都内のホテルだが、単なる偶然にしてもすごい!

これからは、過去の仕事を思い出しながらこのコラムを書くことにしよう。念力を込めて良い話が立て続けに舞い込んでくることを期待しつつ‥‥。

2018年4月 2日

「ご褒美」は?

 内閣官房報償費(官房機密費)の一部開示を認める最高裁の判断に基づく情報開示で、その一端が明らかになったという報道があった。とはいっても9割は領収書不要で使途が分からない。「政策推進費」とは、要するに政権に対する協力費や、ご褒美として支払われる金なのだろう。支払う側が使途を明らかにしなくて良いのだから、受け取った方も確定申告などするわけがない。ということで官房機密費という名の協力金やご褒美としての収入は非課税で良いのですねと、佐川宣寿前国税庁長官に聞いてみたいものだ。

 先週は衆参両院の予算委員会で佐川氏の証人喚問が行われた。何が問題点なのかについて、これほど明確に証言した証人は過去にいなかったのではないだろうか。「語るに落ちる」という見方をすると大いに成果のあった証人喚問だった。

 それにしても、「……からの指示はなかったのですね」という質問を続けた与党のセンセイがいたが、自分で恥ずかしいと思わないのだろうか。最初から茶番だとは思っていても、もう少し工夫すべきではないかと呆れてしまった。必死に権力者に忠誠を尽くす姿は哀れに見えてきた。あとで何らかの「ご褒美」があるのだろと疑ってしまう。

 それに対して佐川証人は、「ありません」と明快に答えていた。証人喚問で自分が果たすべき役割は何かをはっきり自覚できているということだ。さすがに頭脳明晰な方だけある。よくやったと、「ご褒美」が期待できるのではないだろうか。

 一方、野党の先生方はもの足りない。「刑事訴追の恐れ」を理由にした証言拒否は最初から想定できたことだ。つまり証言拒否を前提にして、効果的な喚問の論理を構成すべきなのである。「刑事訴追の恐れがある」ということは、つまり、その部分には犯罪を構成する要素が含まれている可能性がある、という証言に他ならない。したがってその都度「…については犯罪を構成する要素が含まれている可能性があるという証言と理解しました」と畳みかけるべきだ。そうすれば、テレビなどの視聴者に与える印象や世論形成への影響が違ってくるし、証人に対しては刑事訴追を理由に証言拒否することへの心理的圧力になる。

 まぁ、自分はセンセイではなく、単なる野次馬に過ぎないですがね…。

2018年3月26日

永遠の30代

 作家の内田康夫さんが亡くなられた。内田さんの名探偵・浅見光彦シリーズは好きだった。全部は読んでいないが、かなりの作品を読んでいる。

 何しろシリーズの作品が多いので、読んだか読んでいないか、分からなくなってしまう。書店の文庫本の棚に並んでいる背表紙を見て、あれ、これは読んだかな、と考え込むことがしばしばあった。タイトルだけでは思い出せない時は、目次をみて読んだかどうかを思い出すこともある。それでもダメなら本文を斜め読みして確認。読んでいなければ購入して、読み進めていくうちに失敗した読んだことがある、と気づくようなこともあった。

 報道によると、同シリーズは114冊で累計発行部数が9700万部という。ついつい印税収入がどれほどになったのだろう、といった卑しい考えが浮かんでくる。

 なぜ、浅見探偵が好きかというと、あまり頭の負担にならずに、すいすい読めるということも大きな要素だ。もちろん、ストーリーの面白さも当然である。

 だが、それ以上に楽しいのは、全国いろいろな地方に連れて行ってもらえることだ。浅見探偵と紙上で旅ができることが何より楽しい。タイトルに地名がついたものも多いので、タイトルの地名で本を買ってしまうような面もある。その地方はどんな風景なのだろうか。また、そこでどのようにストーリーが展開するのだろうかという楽しさである。

 このように浅見探偵に旅に誘ってもらうのだが、自分もけっこういろいろな地方を訪ねているので、行ったことのある地域が出てくることも少なくない。小説の中の風景描写などを読むと、あぁ、あそこはそうだったなと思い出す。あるいは、小説に登場する地方の近くまで行ったことがあるような場合、再び仕事で近くまで行く機会があったら、少し足を延ばしてぜひ行ってみようという気持ちになる。

 そんなことで、内田さん=浅見探偵にはもっともっと様ざまな地方を案内してもらいたかった。それが叶わなくなってしまったのは残念だが、これからも浅見探偵のように永遠の30代で取材の旅を続けたいと思っている。

2018年3月19日

「しっぽ」にもなれない

 以前のことだが、思わず苦笑したことがある。ある仕事の関係で行政機関から校正直しが当方に戻ってきた。もちろん直しは一向にかまわない。そのための校正なのだから。だが、数えてみたら何と11人の判が押してあった。もちろん秘密文書でも何でもないし、ワードのA4判1枚に満たない文字数の文章である。まぁ、率直にいえば責任分散としか思えない。役所とはことほど左様に文書(文章)に「厳格(幻覚ではない)」である。

 森友学園との国有地取引に関わる決済文書の書きかえ(ねつ造)を財務省が認めた。先の例でも分かるように、決済文書のねつ造を役人の判断でできると思っている人はほとんどいないだろう。おそらく、裏で何らかの力が働いたと推測するのが普通だ。それはともかく、肝心なのは何のために、誰のために改ざんしたのかを明らかにすることである。

 今回の決済文書ねつ造問題が明るみにでたのは朝日新聞の報道からだ。朝日の記事を読んだ瞬間、この書き方ならねつ造前の文書のコピーを入手し、裏付け取りにもかなり時間をかけたな、と思ったものである。まさにスクープでありジャーナリズムの存在価値を示した。同時に、コピーの入手先はどこだろうと考えた。ソースをあれこれ思索しているうちに、なるほどそうか! と思い当たる線が頭に浮かんだ。その点でも勉強になった。

 報道ということでは、いま大きな関心を持っているのが、この問題について御用新聞が今後どのような取りあげ方をしていくのだろうか、という点だ。記事としてはそれなりの大きさで取り上げないわけにはいかない。だが、どのような論理のすり替えで問題の本質から読者の目を逸らせるような記事にするのか。それはそれで勉強になる。

 ここまでくると、関係者の中から自殺者やあるいは「事故死(怪死)」がでるのではないかという悪い予感がしていたが、残念ながら犠牲者がでてしまった。実質的に更迭された佐川前国税庁長官も、見方を変えれば犠牲者の1人といえなくもない。

 佐川前国税庁長官は、国会答弁で誰を、何を守ろうとしたのか…。良い大学を出て、平然とウソをつく忠誠心をもち、権力者に忖度する要領と処世術を備えていたのに、やっとたどり着いたところがトカゲのしっぽだったのか。自分など「しっぽ」になる才覚すらない。

2018年3月12日

「カレイなる人生」

 昨日は3月11日。いうまでもなく7年前に東日本大震災が発生した日だ。もう7年も経ったのかと、時の流れをしみじみと感じる。

 歳月ということでいえば、有限会社物流ジャーナリスト倶楽部の設立が1997年3月11日なので、丸21年が過ぎ、今や22年目に入った。振り返ってみると早いものである。たいがいの企業は設立から20年も経てばかなり規模が大きくなっているか、あるいは反対にダメになっているはずだ。だが「当社」は1人の会社で20年間ずっと細々とやってきた。成長もしなければ衰退もしないで20年間現状維持というのも貴重な存在ではないかと自負している。

 1人の会社ということでは、会社の歴史はすなわち高齢化を意味する。そう考えると喜ぶべきか、悲しむべきか悩むところだ。

 だが、おかげさまで年々、忙しくなってくる。ありがたいことではあるが、生産性の低さは労働時間の長さに直結してくる。「働き方改革」などの原稿を書いたり講演したりしている自分自身の「働き方改革」の方が大きなテーマだなと苦笑するしかない。

 働かなければ食べられない現実もあるが、定年がない、あるいは定年は自分で決められるという「特権」を生かして、こうなったら生涯現役で行こうかとも思う今日このごろだ。それが自己流の「カレイなる人生」ではないかと考えるようになってきた。けっして「華麗なる人生」ではない。実態は「加齢なる人生」なのだが、それでは色気がない。そこで「カレイなる人生」と呼ぶことに決めた。

 こんな下らないことを考えている間にも、「〇〇のテーマで、何文字から何文字の範囲で、締め切りは何月何日で書いてもらえますか」というオファーがメールで入ってきた。切り口や構成は任せてもらえるという。もちろん「OK」と返信した。

 こんな日常が自分流の「カレイなる日々」なのである。

2018年3月 5日

引越異変

 こともなく過ごしている間に3月になってしまった。今月は年度末なので何かと忙しい人もいるだろう。その点、当方は関係ないと思いきや、忘れていた。年度内に一定の形をつらなければならない仕事が急遽、入ってきていたのだ。といったことで結局、3月末まで無休の生活が続く。

 それはさておき、3月中旬から4月上旬にかけては引越シーズンだ。その年の曜日の配列によって多少の違いはあるが、この約1カ月間に年間の引越件数の約3分の1が集中する。引越事業者にとっては書入れ時には違いないのだが、今年は例年と違う様相を呈している。

 先日、ある人から「今年は引越シーズンに引越しできない人が出そうだ。予約がいっぱいで受託できないから日にちをずらしてほしいと各社が足並みを揃えて言っている。しかも最近、マスコミなども一斉に『引越難民』などと取り上げているのは異常に感じる。これには何か裏があるのだろうか」と訊ねられた。

 ちなみに全日本トラック協会の今春の引越混雑予想によると、3月24日~4月8日がとくに混雑するので、3月前半や4月中旬以降に分散してほしいと呼び掛けている。このように各事業者も業界団体も一致して、ピーク時には対応が難しくなるので避けてほしいと訴えているのは事実だ。だが「とくに遠謀深慮な裏事情などはないだろう」と答えておいた。

 恒常的に労働力が不足しているのに、年間引越の約3分の1が集中するのだから車両、ドライバー、作業員の確保が大変だ。協力会社にしても同様である。このようなことから需要に供給が追い付かないというのが正直なところだろう。しかも、時間外労働時間規制や未払い残業代問題などが注目を集めている状況下では、従来のようにムリして受注して長時間労働でこなすよりも、労働力不足で受注できないと断った方が無難だ。

 正直なところ引越事業者が単独で何かを訴えても社会的関心事にはならない。それに対して、昨年は宅配便のドライバー不足や過重労働が社会的に注目された。そこで、この際、宅配便騒動に便乗して引越業界でも受注抑制をした方がアピール度が上がる。しかも、需給関係から価格が上昇するのは理の当然だが、実際に受注しない方が利用者の理解も得やすく抵抗も少ない。

2018年2月26日

平昌五輪

 平昌の冬季オリンピックが昨日で閉会した。3月9日にはパラリンピックが開会する。冬のスポーツをしている人やファンには申し訳ないが、正直なところ個人的には夏季オリンピックと比べると関心が低い。もちろん、日本選手が上位入賞する可能性の高い競技は観たいし、実際にテレビ観戦した。しかし、それ以外の競技には興味がわかない。それに対して夏季オリンピックは、日本選手が決勝に残らなくても、ひょっとして世界新記録が出るかも知れない、と観てしまう。

 また、今回ほど政治的な思惑があからさまに出たオリンピックも珍しいのではないか。政治とスポーツは別などという幻想は持っていないが、あまりにも酷すぎる観がした。テレビに映る韓国大統領をみて、これが一国の大統領なの? と思わざるを得ないような場面もあった。

 さらにスポーツと経済の関係も強く感じた。顕著なのは競技の時間帯である。それぞれの競技の人気が高い国々向けに、テレビでライブ放送できるようなスケジュールと聞いた。選手よりも政治、経済の都合を優先したオリンピックといえる。

 もっともテレビではライブ中継を重視しなければならない事情も分からなくはない。インターネットが普及し、リアルタイムで勝敗を知ってしまう人が増えれば、録画放送では視聴者が減ることになる。

 それにしても連日のオリンピック放送には、正直なところかなり辟易している。とくにNHKの放送時間は異常だ。レギュラーのニュース番組も時間を短縮し、そのうえ短縮した時間内でもオリンピックの話題が多くを占める。BSも含めてNHKは、あたかもスポーツ専門の放送局になったかのようだ。

 さらに、NHKや民放を問わず、的外れなインタビュアーが何人かみられた。インタビューされている選手の表情が一瞬、「ハッ」となる場面を何度かみた。瞬間的にインタビュアーを見下したような目の表情も垣間見えたが、世界レベルで優れた選手は年齢が下でも役者が上だ。ピントがズレた質問に対しても、それなりに対応していたのはさすがである。インタビューの内容はインタビュアー自身を等身大に映しだす鏡でもあるから怖い。他人ごとではないぞ。

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー